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FAQ 三川内焼について教えてください。
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- 三川内焼について教えてください。
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豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、26代平戸藩主松浦鎮信(しげのぶ)が慶長(3年)(1598年)連れ帰った陶工の1人、巨関(こせき)は、藩主の命を受け、平戸領内中野の上椿坂で最初の窯入れをしました。
これが中野窯で、平戸焼そして三川内焼の始まりです。
その後、良質の陶土がなく、巨関と息子の今村三之丞は陶石探索の度に出たが、落ち着いた所が「三川内」でした。
28代藩主松浦隆信は、三之丞に三川内山に藩用の製陶所を開くことを命じました。
また、寛永15年(1638年)には、29代の松浦鎮信(ちんしん)は三之丞を皿山棟梁兼代官に任じ、寛永20年(1643年)には、皿山役所の出張所を木原山と江永山に設けました。
これが、三川内皿山の起こりです。
三川内の平戸藩窯は、三之丞の子の弥次兵衛正景の時に至って整備拡充されました。
この弥次兵衛が、天草陶石と佐世保の針尾島の網代(あじろ)陶石を用いて焼成に成功しましたが、これが純白の白さを誇る三川内焼の白磁の始まりです。
三川内焼を代表する絵柄である唐子絵は、江戸時代は、平戸藩御用窯の指定図柄として三川内山以外の窯では焼くことができませんでした。
これは「献上唐子」と言われ、松の木の下で無心に蝶とたわむれる唐の子供が描かれており、朝廷や将軍家の献上品(7人唐子)や藩公の用品または諸大名への贈り物(5人唐子)、また武士用(3人唐子)として、区別して使われていました。
なお、昭和53年には、国の伝統的工芸品の指定を受けております。
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経済部 ふるさと物産振興課
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